強盗から”you are strong! ”と言われた女

25~30 年の引きこもり、摂食障害を克服した

独身女性の過酷なstory

 ---------視点と課題---------

1.彼女は、何を、何故?苦悩したのでしょう?その原因は?

2.彼女の両親が求めたものは?

3.心理学100冊、倫理学等々で回答は得られたでしょうか?

4.インド40日間、独身女性の無謀な一人旅で、何が得られたでしょう

5.日本一周、野宿の自転車旅行で得たものは?

6.専門病院での治療効果は、あったでしょうか?

7.専門病院で得たものは?

8.改名効果は、あったのでしょうか?

9.苦悩の過程で彼女がたどり着いたことは??

10.何故、彼女は果敢に努力したのでしょうか?

11.彼女は言葉がスムースに話せません、何故でしょうか?

12.彼女に一言アドバイスをするとしたら?

13.私のアドバイスは、なぜ効果があったのでしょうか?

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(カッコ内は私のコメント)

両親は再婚同士、それぞれの家庭も故郷も何もかも捨て、身一つで上京。

十年の恋が成就したものの、縁もゆかりもない都会での生活は苦しいものでした。

家具といえば、当初はミカン箱でしつらえた、ちゃぶ台ひとつ。

何度か流産、七年目に待望の子を宿した、それが私です。

 

1976 年の春に、東京都豊島区で私は生まれました。

生まれる前から名前を付け、お腹の中の私に話しかけ、ベートーヴェンを聴かせては

誕生を待ち望みました。

私は泣いたり、怒ったり、自分の欲求を感じ、外へ表現することを知らないまま成長していきました。

不足や不快を感じる前に全て母が先読みして用意周到にやってくれたからです。

物心ついたころには、毎晩のように静かに枕をぐっしょり濡らしました。

 

私の両親は、友達の親御さんよりも、ずいぶん歳をとっていると感じていました。

(父は 44 歳、母は 39 歳)

明日にでも死んじゃうんじゃないか、親戚は、遠くにいて誰も助けてくれない!

一人ぼっちになったらどうやって生きていけばいいのか・・・、こんな心配を寝る前に

いつもしていました。

 

両親を悲しませたり困らせたりしたらショックですぐ死んでしまうと、本気で考えていたのです。

それがこの頃の私の全てであり10 年、20 年後も私の根底にある不安と恐怖でした。

 

(柔順な子は、親の愛を得るために、お行儀良く、自己主張しない騒がないことを学習した、

愛を得るための存在になった。「人生の悲劇は良い子に始まる」P46)

 

母はいつもカリカリしていたので、地雷を踏まないようにびくびくしていました。

私は両親の喜ぶことを先読みして言動を決めていました。

ある時、母が怒らない日ってあるのかな・・・と思い、その日から母を観察してみたのですが、

母は、毎日私のなにかしらに癇癪を起こしていました。

(一番危険な「存在するな!」の⇨「禁止令」

 

今思い返すと、母もぎりぎりのところで必死だったのだと思いますが、

 

母が帰る前に遊びを切り上げて一足先に帰って家中の照明をつけテレビもつけておかないと

どえらい鬼の形相で執拗に詰られました。

母は、淋しさの塊でした。誰もいない真っ暗で静かな家に帰るのを病的に恐れていたのです。

(母には母の事情があった)

 

運動会で、徒競走がありました。

私はビリから 2 番目に走っていました。

前を走っていた子が転んだときに、追い抜きのチャンスにもかかわらず、私は走るのをやめて

倒れている子に手を貸しました。

最後を走っていた子にも抜かれ、転んだ子にも負けて、私はビリになりました。

 

中学生時代 

この頃から父と会話ができなくなりました。挨拶も返事さえも。

思春期によくあることなのかと思っていたら、10 年、20 年経っても変わりませんでした。

中学生になってもいまだ母に洋服を着せてもらっていました。

まさに人形そのものでした。 

20 代になってからも、無意識に母のセンスの洋服を選んでいました。

中央に私が挟まれるかたちで両親と川の字で寝るのは”大学生”まで続きました。

少しでも目の届かい部屋にいくと、母はすぐに探しにきました。

自分の部屋で寝たいといったときの両親の淋しそうな顔、

ある時は「離れるな!」の睨んだ顔。

その後も、親離れすることに罪悪感がずっと付きまといました。 

(「自由であるな」の禁止令)

 

成長して大人になっていく自分の身体に嫌悪感を抱えていました。

(「大人になるな!」何時までも可愛い子であれの禁止令)

片時も離れることのないこの身体。

忘れようにも忘れられない、絶えず意識が向くほど一番近い存在。

女性らしい女性はもちろんのこと、男性に対する怒り。

笑顔 = 女性という図式があったので、少しでも微笑んだりしたら襲われると信じていました。

(「女であるな」の禁止令)

横から見られる身体のラインが恥ずかしく、いつも猫背の姿勢で、緩めの服装で隠していました。

女性として見られることへの拒絶反応は言葉で表現が難しいです。

このままいくと、自分か他人を殺めてしまうのではないかと思う程、怒りを抱えきれなく

なっていきました。

  

もうひとつ夢中になって身を蝕んでいったものが・・・

ある日、友達 3 人でダイエットすることになりました。

ひとり私はみるみる痩せていきました。

1 食たりとも 1 寸の狂いもなくカロリー計算を続けました。

こうして体重は、簡単に 10 kg はストンと落ちましたが、

「もっと、もっと痩せなければ」と

いう念がやみません。

何をしていても、何を見てもカロリーのことが頭を離れません。

自分の身体に対するイメージも変わりました。

身軽で行動範囲も広がりました。

女性らしい身体から解放された様な気になりマッチ棒のようになりたい!

性の対象としてみられない男の子になりたい!と願いました。

体重や食品の計量やカロリー数、試験の点数、成績の順位といった「数字」に執着していきました。

同時に夕食後のウォーキングも、初めは 40 分でしたが、次第に 60 分、90 分とペースと

ともに増し、休日では毎食後 90 分、 1 日 4.5 時間を時計並みの正確さで、毎回同じコースを

歩きました。

それは天候や体調に関係なく、強迫的な習慣となりました。

この食事や運動を続けることが、第一優先となり、人との交流が煩わしく電話のベルにも

怯えるようになりました。

 

外食もできなくなったため、友達との付き合いもなくなりました。

母の手料理も受け付けなくなりました。

この強迫的習慣はこれから何年も続きました。

★ダイエット狂は、現実世界の向き合わなければならないことから目を背けさせてくれます。

頑張っただけ、成果が目に見えます。

身体が軽くて、試着しなくても好きな服が買えて、お腹や腕の肉をつまんで溜息つくこと

もありません。

(自分でコントロールすることへのあこがれ)

ダイエットや運動には、あるところまでいくと脳がハイになるといわれます。

この「快感」を忘れることができず、どこまでも追い求め、終わりはなく、止められないのです。

ダイエットに狂いながらも、勉強やピアノも必死になりました。

(うつも依存症も努力する人)

体重は 28 ~ 29 kg(身長 156 cm)まで落ち、学校の成績順位が 1 桁にまで上り詰めた途端、

鬱になりました。

ピアノのふたも開けられなくなり、テレビを見ても笑えない、生理は止まり皮膚は黄疸になり

目は虚ろ、声はうまく出せなくなり、髪はたくさん抜け落ち、踵はひび割れてすぐに出血しました。

大学 3 年生の時に、留年がきまり、プライドの高さから退学の道を選びました。

この頃に夢中になったのは、心理学や哲学、倫理学でした。

ある心理学者の 100 冊は超える著作をむさぼるように読み漁りました。

それは親子関係の問題が、一貫としたグランドテーマでした。

(親は、愛で子供に接してるだけではないという事読んでショック!)

   

美しいとは、果たして本当に美しいのか、永遠に、絶対に、万人に美しいのか。

私はどうしても知りたかった。

汚いものに憧れた。(インドを選んだ理由)

汚いものに憧れ、泥まみれの窮地に身を置き、表裏一体の苦しみと喜びを

繰り返し感じながら、自分を知りたいと思いました。

 (基本的にはリストカットと同じ、自分の存在感を実感したい)

夢でインドを見たその翌日、そこに答えがあると信じ、言葉もわからない、40日間のインド行脚。

(心理学を読んで潜在心理を真に受けた)

(インド旅行中に強盗から金を出すように言われたが断固拒否したので、

強盗は、「you are strong」と言って去った。)

 (この段階でも自分は強いという認識はなかった)

翌年、1998 年の元旦に、新しい自転車に寝袋、テント、自炊道具を積んで旅に出ました。

もちろん、両親には秘密で。

埼玉県所沢市から太平洋に向かって出発、雪の降る富士山のふもとへ

7か月半で日本を一周、ほとんど寝袋で野宿!  

(2つの無謀な旅行で得たものは?)

 

依存症の病院へ長期入院、以後 10 年間で 5、6 回入退院を繰り返す。

他力本願と言われればそれまでですが、これまでに私は色々なものに救いを求めてきました。

 

霊視、お祓い、パワーストーン、風水、座禅会、お墓参り、神社参拝、瞑想、占い、

水晶、カウンセリング、毎日の真水かぶり、

趣味、栄養学、心理学、哲学、倫理学、一人旅 ・・・。

どれも、過食の魔力には敵いませんでした。

 

答えを見つけるはずだった旅ですが、日本国中どこを探してもありませんでした。

それは一番近い自分の中にあったからです。

 

戸籍からの正式の改名 :2008年9月(300通の証拠資料で) (5年後、改名の問題に気づく)

18 歳から苦しみぬいたアイスクリーム 80 個の過食と、 1 ~ 3 週間にわたる絶食を繰り返す

という自殺行為を、今、手放す時がきたと思いました。

 

常識や正論や道徳で私を説き伏せようと、両親も苦しみました。

私は何年も押し黙り、キレイごとの檻の中に入れられそうになると牙をむきました。

家庭崩壊、このままいくと両親が狂ってしまうという限界で、私は自分が病気であったことに

気づきました。

インターネットで調べたら、私と同じ症状が書かれてあり、「摂食障害」という、俗に

過食症や拒食症と呼ばれる依存症であることがわかったのです。

そして、私が編み出したと思っていた、墓場までもっていこうと思っていた悪癖は、

チューイングとか噛み吐きと呼ばれる症状のひとつであることも知りました。

こんな汚いことをする自分は世界中に私しかいないと思い隠してきた過食やチューイング、

絶食を治したいと思いました。

 

日本に数少ない依存症の専門病院をネットで探し、入院を決めました。

それには両親に話さなければなりません。

 

ある日「精神科」の病院を探していたら、それを見た母は「ウチに精神病になるような子は

いない!」と怒鳴りました。

(「健康であるな」の禁止令)

人と話していても突然あふれてくる涙、嫌な事を言われたのでもなんでもないのに、

涙が止まりません。

後に母は、この時の事を悔い、泣きながら何度も詫びました。

 

父は私の学費と生活のために長距離トラックに乗り、日本国中を走り回っていました。

生活リズムはバラバラで家族で顔を見合わせて会話するタイミングも心の余裕もありませんでした。

母のピアニストへの若かりし夢は、娘への大きな期待へと拍車をかけました。

(「自分の人生を生きてはいけない!」という禁止令)

寝る間も休日もない父と娘に人生をかける母

重圧の日々・・・。

数日後、山の中に隔離された精神病院へ入院しました。

摂食障害になって 8 年が経っていました。

過食しては爆睡の繰り返し。 当然、体重も増えていきます。

形や数字に執着していた私は、体重が増えるのは耐え難い苦痛でした。

何度も死にたくなりました。

1週間を過ぎるころ、自ら希望し閉鎖病棟へと移りました。

ドアは外からカギが閉められ、窓は鉄格子が張られた部屋です。

これで過食をしなくて済むと思うと安心しました。

自由よりも、過食から離れたかったのです。

意志の力ではどうすることもできないコントロール不能な魔物でした。

母に何度も手紙を書きました。

買って送ってほしいものリストが届くたびに、母はそれらを揃えるため買い物に走りました。

幼いころ、一度も物をねだったことのない私が、ここぞとばかり母をこき使いました。

母に何度も、「私を殺せ!殺せ!」と手紙に書きなぐりました。

初めて閉鎖に入った夜、自分の両腕を何十ヶ所も噛みました。

翌朝、歯形の痣だらけの自分の腕を見て、誰かに助けてほしいと思いました。

 

ある日閉鎖病棟で、父の自殺未遂を知りました。 3 年前に 1 度、今回で 2 度目です。

多額な借金を苦に追い詰められてしたことだと後で知りました。

でも、私は自分のせいだと思いました。

その後、自己破産をしました。

この頃が親子のどん底だったと思います。

 

閉鎖病棟に、もう 3 年も入って治療している 5 歳上の女性がいました。

すぐに仲良くなり、過去のこと、現在の悩み、家族のこと、将来の夢・・・いろいろな

話をして共感し、お互いがお互いの理解者となり支えあいました。

半年~ 1 年以上を病院で過ごすという生活を、8年間に何度も繰り返しました。

数ヶ月して開放病棟へ移り、過食に対する敗北感と罪悪感に打ちひしがれ横になっていると、

開け放った窓からクラシック音楽が聞こえてきます。

ブルックナーの交響曲 8 番です。

この時の胸の高鳴り、身体中の細胞が歓喜に走り回った感覚は忘れられません。

音楽に挫折してから何年も音楽を聴けなかったのですが、このとき聴いた調べは、

未来に希望を見出せないでいた私に救いと力をもたらしました。

「・・・・・・やっぱり私は、音楽が好きなんだな・・・」

その音楽は体育館から聴こえてきました。

アルコール依存症で入院している 60 代の男性が、CD を大音量で聴いていたのです。

クラシック音楽が大好きなことがわかり、音楽の話で意気投合しました。

音楽が聴こえてくると、体育館へ行って一緒に鑑賞するというのが自然にできた日課となりました。

体育館にはピアノがありました。

初めは避けていたのですが、徐々に長年封印してきたピアノを、誰に聴かせるわけでもなく

自分の喜びのために弾けるようになっていきました。

 

高校から大学にかけて、音楽という精神世界に救いを求めていました。

胎教で聴かされていたベートーヴェンが、やはりダントツ 1 位です。

ベートーヴェンがいなければ、今の私はいないでしょう。

 

引きこもりの 9 年間 2002 ~ 2011 (26 ~ 35 歳)

日記を開くと、どのページも紙面いっぱいに、ミミズのような小さな文字が走り書きされています。

今見ると薄気味悪いですが、これも通ってきた私の人生です。

引きこもりの時、自分をとても弱く感じました。

両親が亡くなったら、どうやって生きていけばいいのだろう。

このままの私では一人で生きていけない。

誰もいない独り暮らしの部屋で、ため息まじりの「死にたい・・・死にたい・・・」が

独り言の口癖になっていました。

コンビニやスーパーをハシゴして、大量の食べ物を両手に抱え、帰るまで待ちきれず、

アパートのエレベータから早々に始まる過食。

 

約 20 年の病、潜伏期間を含めれば、

「30 年の檻から解放された囚人の安息と岐路」

今後の人生への自由なスケッチが始まります。

 

わたしと出会い

音楽の専門家に一言、音楽のアドバイスをしたら!

HARA  magic(福は福を呼ぶ)

2018年9月現在、彼女に奇跡が起こりました!!!

本人のコメント、、、、、、、

「今が人生で最大の幸せ!

彼女の名言は「自分との和解」自分が、自分を認める事!

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