佐藤愛子の名言から

 

女はもっと強くならなければならない。
しかし、それは男に対してでなく、

女自身に 対してなのである。

 

どんなボンクラでもいいから亭主はいたほうがええ。
心から相手を好きではなくても、愛しているのと同じ理性
的な行動を取ることだけが、むしろ本当の愛なのだ、と
聖書が規定しているのと同じである。
長く生きた人々は、或いは、病気で苦労した人々は、
それぐらいの嘘がつけなくてはならない。


男女関係において男はいつもそう真剣勝負では
ないのです。
女は常に真剣勝負でいる。
女性はまず、そのことを認識しておいた
ほうがよろしい。

 

心底人を愛し苦しんだことのない人生は、実は何の得る
ところもない寂しい人生なのである。

愛とは楽しいことばかりでなく、苦渋に満ちた
ものなんですよ。

 

優しさっていうのは、喧嘩しないとか、おとなしいと
いうのとは違うのよ。

相手の気持ちを忖度できるっていう のは、優しさの第一の条件でしょう。

よい、悪いは何もいえない、たとえどんな結果が出よう
とも、そこにあるものは、ことの評価ではなくて、その
人間が「かく生きた」という、その厳然と悲しい事実だけで
ある。

 

人は、それぞれ持って生まれたものに従って、それを伸縮
させながら人生を決めて行くものではないだろうか。

病気が人生を発見させてくれて、謙虚になって帰って来た
人は、実に多い。

 

まだ頭がしっかりしていて多少哲学的なことも
考えられるというのは、もしかすると一億円の宝くじ
を当てたのにも匹敵する僥倖なのかもしれない。

 

人生は公平ではないのだ。人生の公平を願っても、
おそらく未来永劫そうはならないだろう。

考えてみれば、人生はすべて過程である。
これで完成ということもなければ、これで失敗ということ
もない。

 

過程に学び、過程に迷い、過程に愛し、過程に見苦しく
振る舞うのが、人間の生きる自然の姿なのだと思う。

 

この世にはどう解決のしようもなく、ただ、死ぬまで、
その事とお付き合いしていかねばならないという事が
ある。病気も、人間関係も、性格の歪みも、能力のなさも
すべてその中に入る。

 

人間は決して自分の運命を支配もできなければ、完全に
その主にもなれないものだ。
与えられた運命には、意味があることは確かだ。
そしてその意味を見つければ、かつてなかったほどの明確な
「生きる意味」を発見するのも確かだ。

 

勝負に勝っても負けても、それはその人の生き方の正し
さや不正の結果ではない。
関係は皆無ではないかもしれないが、運命はそれよりもっと
深く見えざる手で導かれている。

 

これ以上悪くなりようがないという状態は、希望に満ちた
どん底なのだ。もう運命は上りに向かうしかないのだから。

信じ難い明日を信じる。それは単なる希望でもなければ人間の
善意などという甘ったるいものでもない。
それはむしろ、もっと乾いた人間の任務に近い。

 

私は雷のように私を襲ったものを受け入れます。
人間はそういうものではないでしょうか。
そういう弱いものなのではないのでしょうか。

 

素晴らしいのは、人生が未完であるということです。
なぜなら人間の存在そのものが不完全なのですから、
未完であり、何かを断念して死に至るということは、

人間の本性によく合っているのです。

 

生の充実感というものは、人にとって実に大切な
ものなのだ。それがないと、人間は生きていてもどこかに
不満を残しているし、死んでも死にきれないような気分に
なる。

 

私は死を思わぬ日は一日もないが、過去の話ばかりする
ようなことはまったくない。
私はまだ、今日と未来の真っ只中にいる。

 

(出所:言葉の宝石箱  http://meigenn.jp/satouaiko-2-1495)